あれから15年。
震災があって、仕事がなくなり、東京に行かされたのが、その年の春。
東京では、全然関西の情報が入らなくて、情報量の差違を感じた。
「オウム」のことばかり騒ぎたてて、そんなもん、どうでもええと思ってた。
あれからいろいろあったけど。
リンク:「美し都(うま し みやこ)」平松愛理@YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=XXfLYwKgBQM
リンク:震災15年@神戸新聞
あのとき遠く東の空の下から神戸の希望(ほし)と思った「ブルーウェーブ」は
ほんま神戸のチームとして踏ん張ってほしかった。
あんなええ球場にええお客さん。
何で、ケツまくるんや。
しぶとく粘らんかいな、ホンマに。
東京では、全然関西の情報が入らなくて、情報量の差違を感じた。
「オウム」のことばかり騒ぎたてて、そんなもん、どうでもええと思ってた。
あれからいろいろあったけど。
リンク:「美し都(うま し みやこ)」平松愛理@YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=XXfLYwKgBQM
リンク:震災15年@神戸新聞
あのとき遠く東の空の下から神戸の希望(ほし)と思った「ブルーウェーブ」は
ほんま神戸のチームとして踏ん張ってほしかった。
あんなええ球場にええお客さん。
何で、ケツまくるんや。
しぶとく粘らんかいな、ホンマに。
兵庫県出身の父の親族、父の友人の安否が気遣われる中、特に伯母と連絡がとれず、三日目に伯母が「家は壊れたけど」身体は無事だとわかった時には、職場の椅子から本当に落ちて、「生きていた…生きてた…」と、涙が出ました。
その後、仮設住宅に住んでいた伯母を、グリーンスタジアム神戸に誘って野球観戦に行きました。阪急ファンだった伯母は本当に「久々にこんな楽しい時を過ごした」と、イチロー選手の活躍に歓声を上げていました。確か近鉄バファローズ戦で、中村ノリ選手は背番号66番だったかと記憶します。
…「がんばろうKOBE」の言葉がしみじみしました…色々と時間が過ぎて行きました。
…何故…余りに時間の流れには厳しいものがあるように思います。
みの拝